こんばんは、ガクです。
最近になってブログを見てくれる人が増えて嬉しいです。
ありがとうございます。
ここ数日、眠れない日々が続いています。
横になってから、2時間は意識がはっきりしたまま。
彼女のことや、将来のことを思うと、なかなか眠れません。
こんなに眠れないのは、人生を諦めていた中高生時代以来です。
できそこないな過去が劣等感として自分を襲い、現在を生きるのもしんどく、将来には不安しかなかったあの頃。
あの頃よりは断然気楽で、将来も開けているはずの今。
実際に今は辛いなと感じることも減りましたが、やはりまだ、ふとした瞬間に苦しくなります。
きっとここ数日は、そんな苦痛が運悪く続いてしまっているだけなのでしょう。
研究室の先輩が「この先楽しいことがある気がしないから、それならいっそのこと今タヒんでしまいたい」と弱音を吐くことがあります。
まるで自分のようです。
それに対して、困った顔で「生きようよ」と声をかけてくれる人が大半。
「本当にそう思うならタヒにな」と言うのが一部。
そして自分はといえば、あの時の自分はなんと言ってもらいたかったのだろうかと考え、結局何も言えませんでした。
あの頃の自分であれば、「タヒにな」と言われようと「生きて」と言われようと、心には響かなかっただろうと思います。
そしてめんどうなことに、共感をされたら、自分のことを理解したように思われることに不快感を抱いたことでしょう。
そう考えるとやっぱり「タヒにたがり」とか「メンヘラ」ってめんどくさい。
そして自分が先輩に何もいえなかった理由のもうひとつ。
どんな言葉をかければ良いのかわからなかったというのもありますが、何よりも、その言葉をかけるべき人間は自分じゃないなと思ったということ。
やっぱりこういうのはかける言葉も大事かもしれないけど、誰からの言葉なのかも重要ですよね。
最近は先輩のように心が落ち込んだ時は、YouTubeの病みラジオを聞いています。
イケボのお兄さんが囁いてくれる形式で、おそらくターゲットは女性なので恥ずかしくなることもありますが、これがなかなかいい。
病みラジオを聴いていると、自分以外にも辛いなと感じながらも、懸命に生きている人たちがいることを身近に感じることができて安心します。
もちろん誰だって頑張って生きているのは当たり前ですが、病みラジオを聴いてて安心感を覚えるのは、きっと自分と同じような「生きるのが下手な人たち」が、下手なりに生きているのを感じれるからなのでしょう。
生きるのが下手な人たち…いきべた…
ネーミングセンスどうなんだろうと思ったら、すでに「いきべたさん」って言葉があったんですね。
いきべた、いいね。
それにしても、病みラジオさんみたいに、人を元気つけられる人ってすごいなって感心しています。
いったい中の人はどんな人なのだろうかと、とても気になります。
自分もあんなふうに、言葉を届けることによって誰かを「もう少しだけ生きてみよう」と思わせられるようになりたいとつくづく思いますが、自分自身がまだ沼の中なので、まだまだできる気がしません。
けれど、いきべたさんたちが私のこの生き下手ブログを読んで、同じような奴がいるよと少しでも気が楽になれば良いなと思います。
ちなみに、生き下手は性質なので、恵まれている恵まれてないは関係ないと言うのが持論です。
「あなたよりも不幸な人がいるんだから」はうるさいですって感じです。
辛いもんは辛い。それでも懸命に生きてる。それだけで、えらいよ自分。
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