未来の自分と現在の自分は、果たして同一人物だろうか。

日常

未来の自分と現在の自分は、果たして同一人物だろうか。

辛い時期に支えとなった言葉

辛い時に自分の人生の助けとなったのは「毎日新しい1日を生きる」という言葉だった。後悔の絶えない過去と、不安を煽る未来を自分から隔離し、自分が生きているその日を頑張って生きるようにした。

人生を1日ごとに細切れにしないと、潰れてしまう気がした。何気ない1日ですら自分にとっては苦しかったから、「今日は乗り越えたけれど、いつか乗り越えられない日がくるかもしれない」と恐怖した。しかし「毎日新しい1日を生きる」という言葉と出会ってからは、悩むことをやめた。

人生はしんどいけれど、その日だけなら耐えることができる。明日も苦しいかもしれないけれど、その苦しい明日は明日の自分がなんとかしてくれるだろう。そういうふうに考え始めてからも、日々は変わらず苦しかったけれど、過去と将来の不安に苛まれなくなった分だけ、気持ちは楽になった。

未来の自分と現在の自分は、果たして同一人物だろうか

今日は自分が、明日は明日の自分が生きると考えるようになってから、ふと考えるようになった。

「未来の自分と現在の自分は、果たして同一人物だろうか」

例えば中学生の頃の自分と、現在の自分は考え方が全くの別人だ。自分は過去の自分を理解できるけれど、過去の自分は今の自分を理解できないと思う。きっと数年後の自分が目の前に現れたら、自分と同一人物として認識できないだろう。

生まれてから今に至るまで「自分を愛している」という根っこは一緒だから、もしかしたらその不変の価値こそが、自分を自分たらしめるものかもしれないとも考えたが、将来の自分も同じように自分のことを愛しているとは限らない。

未来の自分が自分でないならば、人生はどう選択すればいい?

未来の自分は他人かもしれない。しかし、限りなく自分に近い他人である。さらに、自分がナルシストであることを加味すると、最愛の他人ということになる。

そう考えると、自分の体は自分1人のものではないということになる。最近は「博士課程or就職」とか、「彼女についていくor別れる」といったような大きな選択に迫られる。前までは、辛くても博士課程に進むんだとか、後悔してもいいから彼女についていくんだと、危うい選択を好みがちだった。

しかし、本当にそれで良いのだろうか?

未来の自分が、現在の自分と同一人物なのであればその選択で良いと思う。しかし、自分はライフステージと共に変容している。それこそ、他人と言って差し支えないほどに。

そう考えると、自分の現在の情熱に振り回され、将来の自分に重荷を背負わせるのはどうなのだろうか。

現在を生きるということは、未来を生きないということ

「毎日新しい1日を生きる」というのは素晴らしい教えだと思うし、自分も過去にそれに救われた。この言葉をさらに曲解し、今日は今日の自分が、明日は明日の自分が生きると考えるようになった。しかし、これは極端に解釈すると…

「現在を生きるということは、未来を生きないということ」

と、言えるのではないだろうか。

結局は根っこがないのが問題

ずっと研究をして生きていきたいと言ったような、不変的な根っこが自分にあるのであれば、その進路に向かって突き進めば良い。きっと将来の自分も、結果がどうであれ納得することだろう。

しかし、自分にはそういった根っこがない。博士課程に進みたいと思ったけれど、それはただ憧れただけだ。

卒論であまりいい結果が出ず、やっぱり自分は研究者に向いてないんじゃないだろうかと思った時に、意地になって「たとえ博士課程に進んで、3年間で結果が出なかったとしても良い。出るまで続けるんだ」なんてことを思っていたけれど、それはあまりにも無責任だ。

いかに現在の自分の気持ちが堅いように見えても、未来の自分もまた、そうだとは限らないのだから。

「毎日新しい1日を生きろ」はもう通用しない

高校生の頃は、この言葉に大いに救われた。毎日その日その日を懸命に生き、勉強をして成績が上がれば道は開けたから。つまりは、高校生の頃は努力すべき方向性が明確だったのだ。

しかし、今はそこまで単純じゃない。努力をすればなんとかなるわけではない。努力の方向性を間違えれば、それはただの時間の無駄になる。そして時には、取り返しのつかないことになる。

これからは未来を見据えて、自分が行くべき道はどこなのか、模索していこうと思う。

今日の公務員試験勉強時間:6.5分
累計公務員試験勉強時間:43.5時間
累計公務員試験勉強時間(理想):72時間

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